「事務だより」の意義を実際的かつ原理的に考える
学校事務職員も「事務だより」というものを出そう、という見解がある。
この場合、これを職員向けに出すのか児童生徒の家庭向けに出すのか、でまず意味が異なってくる。
ひとまず後者について言えば、保健だよりや給食だよりがあるのだから私たちも、程度の俗な臭いが鼻をついてくる。
が、そんか情緒的な話はとりあえず置こう。
「事務だより」の意義を実際的かつ原理的に考えてみる。
まず大前提として、公費で「たより」を発行するからには、「必要性」と「需要(より正確には受け手の「欲求」)」がともに求められる。
自己満足や自己アピールのために公費で購入した紙やインクを浪費するなどは、学校事務職員の風上にも置けぬ狼藉だ。
その上で。
このふたつのポイントに立ったとき、「事務だより」の作成・発行はすべきだろうか。
まず職員向けである。
教職員への連絡事項は一定常にあるし、毎年同じ時期に恒例の、といったものもある。予算委員会、児童手当現況、共済検認、年末調整、その他その他……。
それを考えれば、「必要性」は満たせそうだ。
ただ。
私たちは、教職員が配られた数多の書類をチラ見した後に古紙ボックスに直行させている姿を見ている。
私たちからの配布物も往々にして同じだ。
「共済フォーラム」は配布翌日の古紙ボックスを見ると何冊も拾える。あれ、福利厚生上の大事なことも書いてあるのだけれど。
事務だよりが事務職員から教職員への連絡関係を充足させてくれるかといえば、残念ながら望めなさそうだ。
結局、必要時における全体への口頭周知+メモ入れと、個別のメモ留めや声かけに勝るものはない。
事の良し悪しは置くとして、事務だよりへの「需要」の方は壊滅的だ。
では、家庭向けはどうだろう。
「必要性」の検討においては、私費会計と修学援助関係の連絡がパッと浮かぶ。
しかし、いずれもより正式な周知広報が求められるものであり、当然ながら学校長名義により正式な文書を配布しているところがほとんど全てだろう。
当たり前だが、これを事務だよりに代えるのは妥当でない。公的機関と市民の間の、お金が介在する話なのだから。
公費の予決算や用途を知らせるという考え方もあるようだ。「税金が原資であるからして説明責任を果たす」ともっともらしい言い回しをする方もいる。
そこまで言うなら、そうした全社会的観点からの広報は、地域の回覧板にも入る学校だよりにこそ入れるべきだろう。
保健だよりや給食だよりは、地域の回覧板には入らない。事務だよりも入らない。
してみるとこちらは、「必要性」からして認められない。
「事務だより」の意義は見つからなかった。
学校事務職員も業務負担軽減を進めていいはずだ。
とりあえず、事務だより作るのはやめませんか。