学校事務職員たちの頭を抱える日々

社会の片隅で展開される、現場感覚からかけ離れた学校事務論議に、頭を抱える学校事務職員たち。「活用なんて、されたくない」。投稿歓迎!内容によっては掲載させていただきます→gakkou.jimukyo★gmail.com(★を@に)

「事務だより」の意義を実際的かつ原理的に考える

学校事務職員も「事務だより」というものを出そう、という見解がある。

 

この場合、これを職員向けに出すのか児童生徒の家庭向けに出すのか、でまず意味が異なってくる。

ひとまず後者について言えば、保健だよりや給食だよりがあるのだから私たちも、程度の俗な臭いが鼻をついてくる。

 

が、そんか情緒的な話はとりあえず置こう。

 

「事務だより」の意義を実際的かつ原理的に考えてみる。

 

まず大前提として、公費で「たより」を発行するからには、「必要性」と「需要(より正確には受け手の「欲求」)」がともに求められる。

自己満足や自己アピールのために公費で購入した紙やインクを浪費するなどは、学校事務職員の風上にも置けぬ狼藉だ。

 

その上で。

このふたつのポイントに立ったとき、「事務だより」の作成・発行はすべきだろうか。

 

まず職員向けである。

教職員への連絡事項は一定常にあるし、毎年同じ時期に恒例の、といったものもある。予算委員会、児童手当現況、共済検認、年末調整、その他その他……。

それを考えれば、「必要性」は満たせそうだ。

 

ただ。

私たちは、教職員が配られた数多の書類をチラ見した後に古紙ボックスに直行させている姿を見ている。

私たちからの配布物も往々にして同じだ。

「共済フォーラム」は配布翌日の古紙ボックスを見ると何冊も拾える。あれ、福利厚生上の大事なことも書いてあるのだけれど。

事務だよりが事務職員から教職員への連絡関係を充足させてくれるかといえば、残念ながら望めなさそうだ。

結局、必要時における全体への口頭周知+メモ入れと、個別のメモ留めや声かけに勝るものはない。

事の良し悪しは置くとして、事務だよりへの「需要」の方は壊滅的だ。

 

では、家庭向けはどうだろう。

「必要性」の検討においては、私費会計と修学援助関係の連絡がパッと浮かぶ。

しかし、いずれもより正式な周知広報が求められるものであり、当然ながら学校長名義により正式な文書を配布しているところがほとんど全てだろう。

当たり前だが、これを事務だよりに代えるのは妥当でない。公的機関と市民の間の、お金が介在する話なのだから。

 

公費の予決算や用途を知らせるという考え方もあるようだ。「税金が原資であるからして説明責任を果たす」ともっともらしい言い回しをする方もいる。

そこまで言うなら、そうした全社会的観点からの広報は、地域の回覧板にも入る学校だよりにこそ入れるべきだろう。

保健だよりや給食だよりは、地域の回覧板には入らない。事務だよりも入らない。

 

してみるとこちらは、「必要性」からして認められない。

 

「事務だより」の意義は見つからなかった。

学校事務職員も業務負担軽減を進めていいはずだ。

とりあえず、事務だより作るのはやめませんか。

共同実施が描く夢 ~実態なき会議のロンドと実務の欠損~

いささか機を逸したが、「学校事務」2018年3月号掲載「新潟県学校事務共同実施のこれから ~学校事務は夢を描ける仕事ですか」猪又久美子(新潟県五泉市五泉中学校総括事務主幹)論文を扱いたい。

 

新潟県の学校事務共同実施といえば、宮崎などの先進県で様々な問題が生じ共同実施が劣勢になるなか、近年新たな「モデル」として中教審でも絶賛されている地区である。

ただし、新潟県の学校事務職員・阿久津充氏が文科省の担当部署に出向し、自身の意義を高く訴えただけ、との見方もある。

 

それはともかく、猪又久美子論文である。論文では新潟県における取り組みと進展が丁寧に述べられている。

内容への賛否抜きに、制度的なことが他県の者にもわかるよう記されているのはたいへんありがたく、敬意を表したい。

 

しかし、内容は学校事務職員にとって悲惨なものだ。

 

そもそも入口が不適切財務とのこと。

まず、その内容が書かれてないのが読者に役に立たない。不適切事例を共有化しない業界誌って、意味ない。というか、それ単なる隠蔽でしかない。これじゃ猪又久美子さんあなたもやったのかやってないのかわからない。

その上で、それに対し「財務改善プラン」をまとめ、その取組を推進することを通して不適切財務の是正策推進に共同実施が関わった!と称賛している。

ほほぅ、共同実施がなかったからなお不適切財務があった、かのようである。新潟県の学校事務職員はひとりにすると不適切財務をやるような方ばかりなのか?

そんなはずはなかろう。

 

「学校事務委員会」なるものの学校設置運動も紹介された。

たいそうな名前で結構だが、内容は別会議を構成するものではない。校長のもと、職員会議の一角として扱われれば良いもの、扱われてしかるべきもの、でしかない。

ただ新たな会議を立てて、自分をホストにしたいだけにしか見えない。

 

 そして文末、「「財務改善プラン」を基に、ある事務職員の一日の姿を描いてみ」られている。これが壊滅的だ。

 

午前中には学校事務委員会が行われ「活発な協議の結果、具体策がまとまり」「会議終了」。で、午後は「グループ長校で共同実施です」。

これを評して、「マネジメントに関わる時間が増えて学校経営に参画しているという手ごたえ」。

〆「結論、学校事務は夢を描ける仕事です」

 

ん?事務仕事してる…?

まとまった具体策はどうするの…? 誰がやるの…?

学校事務職員にとって「事務をつかさどる」とは

2014年より議論されてきた「チーム学校」は、2017年3月に成立した「義務教育諸学校等の体制の充実及び運営の改善を図るための公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律」による義務標準法、学校教育法、地教行法の改正で一定の結実を見せた。

しかし、社会的に期待された「専門スタッフの学校配置」は、後景化した感が否めない。

一時期は「チーム学校」を報じていたマスメディアもあったが、実際の法改正の頃にはそうした熱もすっかり消えていたのは、そうした事情からだろう。

 

事務職員に関しては、中教審答申や馳プランに示された通り、職務内容規定と共同実施の法制化が行われた。

「従事するからつかさどるへ」と「共同学校事務室」である。

しかし、「つかさどる」の中身は曖昧模糊としており、共同学校事務室も「置くことができる」規定に過ぎない。

現場へのインパクトやメッセージとしては、必ずしも大きなものとは言えない。

 

もっともこれらは今、「学校における働き方改革」における「事務職員の活用」の論議にコミットし実体化が進められようともしている。

そこで浮き彫りになっているのは、「教員や教頭・副校長の負担軽減のための事務職員の活用」、事務職員への業務移管という、あからさまな方向性だ。

 

「つかさどる」の意味付与が、進みつつある。

「つかさどる」とは、単に事務職員の仕事を増やすことであるようだ。

学校事務の共同実施について② ー共同実施はダム建設?ー

引き続き、学校事務の共同実施について。

 

学校事務の共同実施の、政策としての歴史は決して浅くない。

1998年9月の中教審答申「今後の地方教育行政の在り方について」に端を発する。

 

それから今年でちょうど20年。

しかし、共同実施の全国化の歩みは遅々として道半ば、というのが実情だ。

本格化の歩みに至っては、迷走を重ねた末に気づけば終着点自体が漂流している。

 

その理由についてはさまざまな考察が可能であろうし、追って考えられることは記すことにしたい。

 

ただここではひとつ。

20年を経てもなお未完成にとどまった歴史は、共同実施という政策が誤りであった証左なのではないだろうか。

文部省・文科省の推進にも関わらず、なお共同実施が広がりを欠いているのは、共同実施自体が現場に適用するにあたり重大な欠陥を抱えていることの証左なのではないだろうか。

学校事務の共同実施は失敗であり、幕を引くべき政策なのではないだろうか。

 

政策の変遷は早い。まして文科省の政策は、日進月歩というか朝令暮改というか、ま、そんなところがある。

学校事務の共同実施については、どうもそれとの整合性が取れない。

文科省内でもなく地方公共団体側でもない、共同実施推進勢力の意向もあろう。

しかし、文科省はそろそろこの20年の総括をするべきだ。大好きなPDCAを、今こそ踏むべきだ。

 

何度も言うが、20年経っても終わりが見えないのだ。

ダム建設でもあるまいし。

学校事務の共同実施について

「学校事務の共同実施」という政策がある。

 

義務制学校の事務職員は多くの場合、学校にひとりだ。

級数が多かったりする場合には、ふたりになるが。

 

そして、事務職員以外の学校職員はほとんどの場合、事務職員の仕事をよく知らないし、代わることは難しい。

管理職も含め、そうだ。

 

新人の頃からそんな環境で働くことになる

やもすると、「職人」的だ。

 

するとどうしても、事務職員ごとの働き方や考え方、知識経験による差異が生じる。

 

これを標準化すると称するのが、学校事務の共同実施だ。

 

なるほど道理かもしれない。

 

これを熱心に推進している学校事務職員もいる。

標準化と効率化を進め、事務の安定化を確保するとともに、これまでにない新たな役割を担い、学校事務職員の必要性や存在感を高めると説明される。

 

なるほど道理かもしれない。

 

しかし、現実には共同実施はそういう目的に沿った政策ではない。

 

実際に進んでいる方向性は、共同実施による学校事務職員の人員削減、非正規雇用職員転換、民間委託である。

ひっくるめて言えば学校事務の崩壊だ。

※民間だから質が低い、という意味ではない。委託は業務指示に法的制約が生じる点をもって、崩壊と表現している。

 

学校事務職員の世界での二大勢力は、全事研と日教組事務職員部ということになろう。

この2団体はともに、共同実施を推進している。

 

私は共同実施について、絶対反対だ。

まず第一に、私の雇用を危うくするからだ。自ら墓穴を掘って埋まる趣味は私にはない。生活は大事だ。そのためには賃金をいただく他ない。

第二には、学校事務の地盤沈下をむしろ促進すると思うからだ。「標準化」には工夫がない。自分で頭を使わなくなる。公務員としての学校事務職員である意義が失われる。

第三に、学校運営全体を狂わすと思うからだ。私は思う。教員が圧倒的多数である学校において、事務職員はしばしば「ノイズ」と化す。しかし、学校事務の標準化はノイズを許すまい。が、一方で世界はノイズだらけなのだ。ノイズを排除した学校は世界から遊離し、狂う。

 

インターネットで共同実施反対を発信する学校事務職員は、とても少ない。

そこで、やることにした。

自分のために。

学校事務職員の仲間のために。

学校のために。

開設

かねて予定していたブログ

開設のはこびとなりました。

 

「学校事務」という、社会の片隅にひっそり佇む業界があります。

存在もあまり知られることなく、学校運営の一端を静かに担うお仕事です。

 

しかしどんな世界でもそうであるように、

この静かな世界にも喧々諤々の論議は存在します。

 

それは良いでしょう。

ですが残念なことに、その多くは現場感覚から乖離したものとなっています。

そこには現場で働く私たち個々の姿はありません。

 

現場に依拠し、実態を示す、

そんな立場が必要と感じています。

 

当面はこれまでtwitterで言ってきたこと、

書き溜めていたことなどが中心になるかと思います。

 

よろしければ御贔屓いただけますと幸いです。

よろしくお願い申し上げます。